中国メディアにおける日本

松岡大臣の自殺問題を巡って

 

日中交流研究所所長 段躍中

 

 

 松岡大臣自殺問題について、中国有力地方紙である広州日報朝刊(2007529日付)はトップで報道http://duan.exblog.jp/5507049/した松岡大臣のニュースは、一面を大きく割いて取り上げられた。伏し目がちな松岡大臣の顔写真と、救急隊員によって救急病棟に運びこまれる写真を掲載し、そこに中国人が見れば故人を嘲笑するような悪印象を受ける「狗縄」を用いたタイトル、「日農林水産大臣 家中狗縄上吊亡」をつけて報道したのであった。

 

 確かに、日本の閣僚が自殺するという衝撃的なニュースではあったが、しかし、広州日報の扱いは、やりすぎではないのだろうかと思った。

 まず、日本の大臣の自殺問題は、一地方新聞で、本当にトップで取り上げる必要がある問題なのであろうかという疑問がわいた。中国の地方紙の海外ニュースは、新華社通信によるのが慣行であったが、今回はそうではなく、広州日報が独自にまとめたものであるようであった。中国の新聞に、このように自由な報道を行う動きが現れてきたということはよいことだと思うが、新聞報道における社会責任を果たすために、中国国内外や広州の地域に密着したニュースではなく、このニュースをトップに大きく取り上げる意義はどこにあるのだろうか。

2つめは、タイトルである。このタイトルに、激しい問題意識を感じた。まるで、スポーツ紙のような煽り方である。もう一度、広州日報のタイトル「日農林水産大臣 家中狗縄上吊亡」を見てみたい。和訳すると、「日本の農林水産大臣が、家の中で、犬の引き綱で首を吊った」となるだろうか。

日本と中国では、「イヌ」に対するニュアンスが大きく異なる。日本でも、「犬の引き綱で首を吊った」と聞くと、「ペットの引き綱なんかで…」とよい気持ちはしないだろうが、中国での「狗縄」はそれ以上である。中国語で「狗」を成語として用いた場合、人格を貶め、最低の人間であるかのようなイメージを喚起させることが多い、例えば、「狗不見」というと、「イヌですら会いたくない(人)」という意味になる。日本語でいうならば、最近は用いられることが減ってきているように思うが、罵倒するときに使われていた「犬畜生にも劣る」の「犬」の意に近いと思われる。

しかも、タイトルではわざと「家の中で」と場所を言及している。中国では室内犬より戸外で犬を飼うのが一般的である。外で飼うための犬畜生の引き綱を、わざわざ室内に持ち込んで自殺に使ったとおかしみを出し、あざけっているようにも取れる。

 

日本で引き綱について大きく報道されていたというのならまだしも、そうではなかった。日本のニュースには、ほとんど犬のひもで首を吊ったということは、報道されていなかったように思う。少なくとも、タイトルに用いていたのは見なかった。記事の中で言及していたのも少なかったが、それらも直接的にではなく、「ひも」「布製のひも」と説明したものが多かったと思う。ごく少数の記事が、犬の引き綱であったことを述べていたが、それでも「犬の散歩用とみられる布製のひも」などと婉曲的な扱いのものが目立った。「狗縄」を用いた広州日報では、まるで、中国では松岡大臣の死を願っていて、それが叶ってよかったと言わんばかりである。

 

「犬の引き綱」を強調する広州日報のタイトルを見たとき、少し「幸災楽禍である」と感じた。「幸災楽禍」とは、他人の災難を見て喜ぶ、他人の不幸を願うといった意味を持つ。俗っぽく述べるなら、「人の不幸は、蜜の味」であろうか。

「犬の引き綱での自殺」は、事実であろう。しかし、事実の一部だけを針小棒大に報道することによって、肝心のことが報道されないばかりか、日中関係に対しても影響を及ぼさないだろうか。松岡大臣が自殺することによって、何が起こるのか。光熱費や緑資源機構に対する説明責任、安倍内閣に対する支持率など、日本の今の政治を理解する上で求められる情報が抜け落ちるのではないかと思われる。日中において求められるのは、決して、犬の引き綱を用いたというゴシップ的な観点から揶揄して読者を煽るニュースではないはずである。

 

今回の件で、中国におけるマスコミの社会的な責任と正義について、考えさせられた。文革の後、WTOに加盟し、北京オリンピックの開催を控え、中国のマスコミはよりよい方向に向かってきた。次第に自由な報道が行われるようになってきたのでは、と考えている。

しかし、その反面、報道の自由の中には、責任と公共性を持たなくてはいけないのではないだろうか。特に国際ニュースにおいては、興味本位な情報がむやみと強調されるのではなく、ありのままの情報を報道してほしい。

 

中国のマスコミは、残念ながらまだ国際的な知識が不足しているように思われる。そのため、現状を是正するために、中国の特派員が大きな役割を果たすのではないか、と期待している。

 

両国間の友好のパイプを担ってきた特派員が、報道の責任と公共性を併せ持った立場から、自己の目で見た日本を発信し、それを海外になかなか出られない地方紙を含む多くの記者に伝えてほしい。

 

惜しむらくは、日本から中国に派遣された特派員に比べると、中国から日本に派遣された特派員は少ない(『春華秋實―日中記者交換40周年の回想』より。日中記者交換40周年のときに、筆者が資料にあたったところ、顕著な差があった)。残念であるが、今後増員されることを願い、現在は特派員の努力で補ってほしい。

 

今後、日中交流が頻繁に行われるようになり、中国メディアにおける日本についての報道は特別なことでも、興味本位でもなく、いつも報道される一般的なニュースとなることを望んでいる。